わたしの落合町誌/土物語 2025年03月10日 土物語ハケの下落合。目白文化村を歩く。下落合の原風景。こらえ性と夏みかん。この“自然”を残したい。「下落合駅」も大きく西へ・・・。世代で異なる「バッケが原」の位置。牡丹の名所は昔から。自爆するキノコがあった。落ち合う・落ち合う・落ち合わない。神田川流域の地名に残った「バッケ」。誰がつけたか「高田馬場峡谷」。落合の歴史を見つめる田島橋。旧・下落合駅とJR国立駅は姉妹関係。空き地を見ると不安になる。怒られ、怒鳴られ、訴えられて・・・。限りなく細分化されていく。物売りが流してまわる下落合。下落合の湧水は地下を流れる。名前がピッタリな池の上キリスト教会。深い川底へ下りるのは命がけ。わたしの考えに「あまるべ」。下落合の家並みアルバム。地元が正しかった大正5年の「不動谷」。『野菜』の野菜は下落合野菜?ギル邸に咲いたモッコウバラ。双子の片割れはどこいった?第一文化村アルバムPart1。第一文化村アルバムPart2。落合小学校アルバム。椿山のバッケと谷戸めぐり。ゴミを棄てたら即逮捕。ヒグラシの声を聞くたびに。大正期のもうひとつの“洗い場”。下落合には「自動車教習所」があった。「西洋館」と「日本家屋」の違いは?目白通りは大渋滞。『高田町史』と『落合町誌』の間に。下落合から眺める富士山ふたたび。ようやくカラー版「事情明細図」を手に入れた。絶版になった親父座右の本2冊。空白時代の落合町「商工地図」。たまには「とん狂な失言」を。消えた道と「第2の洗い場」と釣り堀。目白中学校のキャンパス平面図。大正から昭和初期の下落合邸宅あれこれ。目白中学校が去ったあと。東京府「落合府営住宅」の勘違い。カラー版「商工地図」を入手した。箱根土地と東京土地との記憶齟齬。描かれた下落合銭湯の煙突たち。大正末の下落合は地価狂乱バブル。戦前の下落合における揚水設備。箱根土地本社からの眺めだと思ったら。坪単価68円50銭だった近衛邸の「開放」。目白文化村の分譲絵はがきの裏側は?どこまでも「御留」にまつわる下落合。すてきな三田の慶應キャンパス。中井陸橋から「アビラ村」の丘を眺める。東京じゅうにあった「草津温泉」の系譜。さようなら、目白変電所(配電所)。井上哲学堂にやっぱり出たんです。大正期には電燈線と電力線の違いがあった。たまには現在の空中写真で・・・。「正史」と地元の記憶とのはざまに。清水川50番地あたりの高田馬場仮駅。目白駅の勘違い。いつも深夜にお出迎え。下落合の「初体験」街歩きツアー。下落合のクリスマスイルミネーション。下落合の相馬邸はどこへ?ケヤキの葉が落ちない。「狐火」だらけの目白崖線。ある夏の第一文化村の街角。風情のある下水道階段。安政大地震タイプが危ない落合地域。三ノ坂の双子住宅の謎が解けた。藤田邸の水琴窟を甦らせる。たまにはヘビと遊ぼう。金久保沢の流れをたどれば。1937年(昭和12)ごろの林泉園を眺める。相馬邸の御留山を散策する。(上)相馬邸の御留山を散策する。(下)昭和初期のイラストマップを入手。無事だった七曲坂の庚申塚。葛ヶ谷の風致地区にできた写真工場。牧歌的な「牧場分譲地」。タヌキだらけの東京都。うつろいゆく目白駅の記憶。御用聞きvs奥様・女中バトル。住宅街のまん中のミニ商店街。なかなか売れない第四文化村。大岡越前は石をぶっつけられたか?80年たって逆転した「防犯常識」。バッケの山王斜面に通った八景坂。『落合文士村・目白文化村コース』改訂版が出た。「不動谷」を規定していた教育委員会。聖母坂には関東バスが似合う。富士山は先達いなくちゃ登れない。バッケ(崖線)の語源を探ってみよう。下落合の旧石器はなにを物語るか。鎌倉と下落合の「隠れの里」相似。次は終点の下落合でございます。古い本棚をのぞいていると。昭和初期の目白通り風景。地元の道名と「公式」の道路名。アビラ村(芸術村)にもいるタヌキたち。御留山の弁天社はどこへ?ゆたかな湧水を想像してみる。町名復旧事業へ取り組む自治体。旧・下落合駅の図面を入手した。清戸道と目白通りとおまけの左義長。旧・下落合駅の「折り返しの場」。1954年(昭和29)の新宿区と落合地域。大正地図に残る「丁目」表示のミステリー。アビラ村(芸術村)の成立事情が判明。目白文化村と前谷戸の埋め立て。御留山にあった弁天社のゆくえ。目白文化村の「第五文化村」?(上)目白文化村の「第五文化村」?(下)下落合に残る擁壁や塀のいろいろ。アビラ村(芸術村)開発から見えてくること。1923年(大正12)の「近衛町」の夏。1923年(大正12)の「御留山」の夏。1923年(大正12)の「目白文化村」の夏。1923年(大正12)の「アビラ村」の夏。「出前地図」の西部版が見つかった。たびたび変わる西武電車の敷設ルート。カンベンしてほしい西武鉄道の設計チーム。「あ・うん」の呼吸の陸軍省と西武鉄道。地下鉄「西武線」の陸軍省稟議と免許。「アビラ村」にバッケ坂や蘭塔坂が復活。貴重な西武鉄道沿線御案内をいただいた。東村山から砂利とセメントを運ぶ西武線。「西武電車沿線案内」のバージョンアップ版。西武線敷設に「新兵器」投入する鉄道連隊。(上)西武線敷設に「新兵器」投入する鉄道連隊。(下)見たことのない1927年の落合町地図。セミしぐれが聞こえない下落合の夏。落合地域東部の放射線測定値。(上)落合地域東部の放射線測定値。(下)自宅とその周囲の放射線量。(上)自宅とその周囲の放射線量。(下)最初期1909年(明治42)の落合地形図。『戸塚町誌』と『落合町誌』の間に。江戸期の「バッケ堰」の位置を探る。陸軍士官学校の測量演習1917年。できたて聖母病院の周辺に写る家々。学習院の旧石器時代層から想うこと。学生時代は落合・長崎地域をよく歩いた。目白文化村造成前の「不動園」開発。西坂・徳川邸の風情を再現する。目白雑司ヶ谷の金山には石堂派がいた。落合地域にもあった「東京牧場」。下落合にもあったニホンオオカミの社。吉武東里邸から寄贈された大谷石を細見。下落合に観世の能舞台があった。「線道」をつけてもらえばよかった。大震災後に改めて提起された防災住宅。落合地域での堤康次郎の起業を追う。江戸名所図会から東京名所図会へ。600万+230万人のみなさん、ありがとう。使われなくなった昆虫自動販売機。落合第四小学校の卒業アルバム1941年。下落合へ東西南北から迫る大道路。うつろいゆく「武蔵野」の記憶と風景。日本橋の“すずめ色”いろいろ。鷹狩りで仕事が増える御留山。もとの木阿弥になった放射線量。妙正寺川のもうひとつの「バッケ堰」。「落合柿」の成り木責めとは?落合大根の沢庵漬けの作り方。巡査も見て見ぬふりの闘鶏賭博。風まじりに棒打ち歌の流れる下落合。鎌田邸から眺めた1928年の下落合風景。野田半三『神田上水』は豊橋の上から。下戸塚の字バッケ下を歩く。虫だらけの下落合このごろ。街歩きで、ぜひお願したいこと。五郎久保稲荷が御霊社であってみれば。下落合にあった神田明神社。宝珠と狐塚と稲荷社の関係。葛ヶ谷・長崎地域の伝承は平安末から。ネコだらけの下落合にいるネコ。江戸東京の匂いがせえへんのや。大掃除で測る自宅の放射線量。下落合の海が見たい!落合分水はバッケを流れ落ちた。西武線にみる鉄道連隊の痕跡。目白文化村の造成を見ていた目白中学生。幕末・明治の落合地域はキツネだらけ?関東大震災と目白中学校の被害。「大磯学」と「落合学」・丸10年によせて。落合の妙見山を登攀する。目白界隈における大震災発生時の記録。第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(上)第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(下)目白中学校の移転と練馬の宅地開発。下落合の「松影道」と「八重垣道」。1921年(大正10)真冬の下落合を歩く。江戸期が匂う1880年(明治13)の下落合地形図。目白文化村絵はがき3枚から考察する。近衛町の未契約地「44号」をどうしよう?媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(上)媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(下)落合・目白地域に伝わる「名刀」たち。台所へ全自動新式ポンプの普及。落合地域に棲息した動物たち。ブログの丸11年がすぎて想うこと。地下鉄「西武線」は1929年3月開通予定。戸山ヶ原から垣間見える下落合風景。質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。上戸塚にも「バッケが原」があった。安藤下屋敷(感応寺)裏の鼠塚・狐塚・わり塚。昭和初期に急増した上落合の飲食店。久高島の巫女と江戸東京の巫女。下落合の町名変更に住民91.2%が反対。目白崖線に残るグリーンベルト。緑深い下落合の風景写真1963年。十三間通りの工事あれこれ。(上)十三間通りの工事あれこれ。(下)1937年(昭和12)の目白通りバス停。関東大震災直前の生き物たちの記録。神田川沿いの薬剤製造工場。感応寺の「裏」側の秘密。(上)感応寺の「裏」側の秘密。(下)タヌキの森と放射線と尾崎翠。神田川沿いへ展開する染め物工房。第二文化村の「社宅建設敷地」の処分。戦前からはじまった東邦生命の御留山開発。文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(1)文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2)文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(3)文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(4)南畝の『高田雲雀』にみる通称「中井村」。下落合は観世流で高田町は宝生流。東京35区時代のプライオリティと名所。『大東京写真案内』にみる新宿区エリア。東京西部に残る和田氏の伝承。ドクトルマンボウの下落合昆虫記??米騒動に起因する東京各地の「市場」。郊外野菜を運ぶ大八車の中身。地球を転がすフンコロガシの歌。『新編武蔵風土記稿』にみる小名「中井」。大倉山の神木と権兵衛坂の「牟礼田邸」。落合第四小学校の開校記念写真。なんだか変だよ「大東京の味覚」の味覚。空中写真の対空標識と二等三角点。西武高田馬場駅の建築資材・砂利置き場。不運な勝巳商店の住宅地開発。下落合の水車と日本初の鉛筆工場。陸地測量部1/10,000地形図のゲラ校正。平和博覧会で売られた1922年の地図。目白林泉園庭球部vs目白中学校庭球部。陸地測量部の班長たちが住む下落合。ちょっと古めな新宿区文化財資料。昭和初期に走る山手線の姿は?日本民話の会と「学校の怪談」。落合地域の荒玉水道は1928年より通水。記憶の糸が途切れた武蔵野風景。落合地域と「大日本職業別明細図」。大正初期の下落合を散歩する。都心と豊多摩が共存する下落合。続・東京府「落合府営住宅」の勘違い。目白中学校の「目白社」と「赤い鳥」。目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)。のべ1,700万人のご訪問、ありがとう。落合周辺の種苗店と牧野虎雄の「花苑」。淀橋浄水場が機能停止した関東大震災。雑司ヶ谷地域の関東大震災。1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。東京郊外にあった「遊園地」の系譜。下落合18番地で印刷された「時代」。そろそろ「落合学」にしてもいいかな……。中井英夫が開いた「薔薇の宴」。樹木の注文書が残る学習院昭和寮。織田一磨の「武蔵野風景」。(1)織田一磨の「武蔵野風景」。(2)織田一磨の「武蔵野風景」。(3)「本村」の字名について考える。千川上水に惹かれる外山卯三郎。葛ヶ谷村(西落合)の「四ツ塚」。大正初期の近衛邸の丘をとらえた写真。1936年(昭和11)の東京名勝めぐり。戦後すぐに撮られた近衛町の丘。大正期のガーデニング用製品。『新宿区史』の下落合写真1955年。『新宿区史』の上落合写真1955年。下落合の炭糟道(シンダー・レーン)。落合地域の人が居つかない場所。下落合駅を通過する西武電車1960年代末。目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(上)目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(下)「よいとまけ」が響く大正期の下落合。棒打ち歌が流れる西落合の初夏。落合地域にみる昭和初期の「断層」。織田一磨の「東京郊外風景」。(上)織田一磨の「東京郊外風景」。(下)ブログ17年目の今日に想うこと。国分寺跡に布目瓦を探す料治熊太。最高傑作とまでいわれたフランス式彩色地図。雑司ヶ谷金山にいた石堂派のゆくへは?1963年(昭和38)ごろの「地番変更案」地図。空き地があれば畑にする1944年。ようやく入手した籾山牧場絵はがき。御留山の相馬邸に展示されていた刀剣は?美術刀剣の保存を進めた谷千城と川村景明。泳ぐと泥んこになる野方と落合の遊楽園プール。落合・目白地域に集った名刀たち。村山知義が好物のウナギとタヌキ。高田馬場仮駅は二度設置されている。のべ2,000万人に感謝と江戸東京のお遊び。酒米を食用米の水田にしてブドウ園を増やせ。武蔵野の森にみる100年前と現在の動植物。落合西部と江古田・片山の和田伝説いろいろ。下落合と椎名町の目白通り商店街1932年。隣り村同士でまったく異なる「おびしゃ」祭り。鼠山で馬上から鉄砲を撃つ徳川吉宗。東京郊外の文化住宅街のトイレ事情。関東大震災の警察資料に記録された祖父。暗闇に吸いこまれそうな崖線の急坂。下落合に眠るか旧石器時代の土器。新型コロナ禍の影響が少ない専門職人の世界。金山の刀鍛冶は石堂守久一派の工房か。やっと出てきた下落合の旧石器を観察する。わたしの記憶にない下落合の神田川橋。「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(上)「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(下)ようやく見つけた一枚岩(ひとまたぎ)の写真。1954年(昭和29)の新宿区勢要覧。1962年(昭和37)の新宿区勢要覧。落合には37基の古墳が記録されている。(上)落合には37基の古墳が記録されている。(下)「前方後円墳風な地形」の月見岡八幡社。旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(上)旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(下)雑司ヶ谷金山の石堂派は「土」に惹かれたか。金山稲荷の石堂孫左衛門と「石堂孫右衛門」。「大温室」があるお屋敷の風景。石堂守久一派は赤坂から雑司ヶ谷に移ったか?昭和初期に撮影された目白通りの2景。下落合の板碑から鎌倉時代を想像する。ついにはデパートのようになった公設市場。「首塚」や「馬塚」の下には古墳がある。甘い落合柿を食べていて想うこと。残された中華民国公使館官舎の門柱。家を外国に貸す人、家を外国に接収される人。近衛師団の演習適地だった明治の落合地域。華族たちが集まる昭和初期の落合地域。大黒葡萄酒の隣りにあった石倉商店工場。錯覚を生む地域や町の「表現」について。まったく面白くない住谷磐根の武蔵野散歩。目白文化村絵はがきと国立絵はがきとの相違。大正期からの丁目表記と字名境界の規定。目白崖線沿いにつづくタタラ遺跡を考える。金久保沢は天然神奈(鉄穴)流し場だったか。山手線と目白停車場は「迷惑至極ニ御座候」。大鍛冶(タタラ)集団による操業は千人規模?海辺で関東大震災に遭遇した画家たち。大泉黒石もはまった神奈川の化石採集。山登りは晩秋がいちばんという話。「山手線」の測定標杭を引っこ抜け。東京からきたって顔は絶対しないで1931年。念仏講のお祈り先はご先祖様と太陽神。東京護謨の納品帰りは神田市場の青果。落合地域における関東大震災の証言ふたつ。目白停車場が存在しない山手線平面図。「目白教会」を伝道教会と福音教会が綱引き。「裏」=中ノ道ではなく「表」の道を進む葬列。連携「下落合と早大を訪れた旧石器人」。『落合町誌』の基盤となった『落合町現状調査』。「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。誤った位置にある目黒の化坂(ばけさか)。社内ガバナンスで激論の三宅勘一と堤康次郎。「近衛町」と「長崎町」を耕す川村女学院。三岸好太郎『茶畑』は大正末の下落合風景。「アビラ村」の名は上高田で受け継がれた?西武線の「開通」が2ヶ月も早い陸軍記録。長崎ダットが原の快進社DAT自動車工場。私設の乗合自動車が盛んな大正末の東京郊外。「近衛新町」の名称はいつまで使われたか。下落合の丘上を発掘調査した大里雄吉。ダット乗合自動車の停留所1935年。小石川駕籠町から下落合への目白ヶ丘教会。のべ2,500万人のご訪問ありがとうございます。「清戸道」の呼称は江戸時代の初期から。大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。薩長政府「塚丘は総て廃毀せよ」通達はひどい。東京近郊の農村としての落合地域。(上)東京近郊の農村としての落合地域。(下)「江戸城」と「千代田城」の相違について。武蔵野で思わず出会えた蕨手刀。 new徳治二年(1307年)の年紀が入る鎌倉期の板碑(薬王院蔵)谷戸地形と湧水池(御留山)目白崖線のバッケ(崖地)地形