わたしの落合町誌/土物語

物語

ハケの下落合。

目白文化村を歩く。

下落合の原風景

こらえ性と夏みかん。

この“自然”を残したい。

「下落合駅」も大きく西へ・・・。

世代で異なる「バッケが原」の位置。

牡丹の名所は昔から。

自爆するキノコがあった。

落ち合う・落ち合う・落ち合わない。

神田川流域の地名に残った「バッケ」。

誰がつけたか「高田馬場峡谷」。

落合の歴史を見つめる田島橋。

旧・下落合駅とJR国立駅は姉妹関係。

空き地を見ると不安になる。

怒られ、怒鳴られ、訴えられて・・・。

限りなく細分化されていく。

物売りが流してまわる下落合。

下落合の湧水は地下を流れる。

名前がピッタリな池の上キリスト教会。

深い川底へ下りるのは命がけ。

わたしの考えに「あまるべ」。

下落合の家並みアルバム。

地元が正しかった大正5年の「不動谷」。

『野菜』の野菜は下落合野菜?

ギル邸に咲いたモッコウバラ。

双子の片割れはどこいった?

第一文化村アルバムPart1

第一文化村アルバムPart2

落合小学校アルバム。

椿山のバッケと谷戸めぐり。

ゴミを棄てたら即逮捕。

ヒグラシの声を聞くたびに。

大正期のもうひとつの“洗い場”。

下落合には「自動車教習所」があった。

「西洋館」と「日本家屋」の違いは?

目白通りは大渋滞。

『高田町史』と『落合町誌』の間に。

下落合から眺める富士山ふたたび。

ようやくカラー版「事情明細図」を手に入れた。

絶版になった親父座右の本2冊。

空白時代の落合町「商工地図」。

たまには「とん狂な失言」を。

消えた道と「第2の洗い場」と釣り堀。

目白中学校のキャンパス平面図。

大正から昭和初期の下落合邸宅あれこれ。

目白中学校が去ったあと。

東京府「落合府営住宅」の勘違い。

カラー版「商工地図」を入手した。

箱根土地と東京土地との記憶齟齬。

描かれた下落合銭湯の煙突たち。

大正末の下落合は地価狂乱バブル。

戦前の下落合における揚水設備。

箱根土地本社からの眺めだと思ったら。

坪単価68円50銭だった近衛邸の「開放」。

目白文化村の分譲絵はがきの裏側は?

どこまでも「御留」にまつわる下落合。

すてきな三田の慶應キャンパス。

中井陸橋から「アビラ村」の丘を眺める。

東京じゅうにあった「草津温泉」の系譜。

さようなら、目白変電所(配電所)

井上哲学堂にやっぱり出たんです。

大正期には電燈線と電力線の違いがあった。

たまには現在の空中写真で・・・。

「正史」と地元の記憶とのはざまに。

清水川50番地あたりの高田馬場仮駅。

目白駅の勘違い。

いつも深夜にお出迎え。

下落合の「初体験」街歩きツアー。

下落合のクリスマスイルミネーション。

下落合の相馬邸はどこへ?

ケヤキの葉が落ちない。

「狐火」だらけの目白崖線。

ある夏の第一文化村の街角。

風情のある下水道階段。

安政大地震タイプが危ない落合地域。

三ノ坂の双子住宅の謎が解けた。

藤田邸の水琴窟を甦らせる。

たまにはヘビと遊ぼう。

金久保沢の流れをたどれば。

1937年(昭和12)ごろの林泉園を眺める。

相馬邸の御留山を散策する。(上)

相馬邸の御留山を散策する。(下)

昭和初期のイラストマップを入手。

無事だった七曲坂の庚申塚。

葛ヶ谷の風致地区にできた写真工場。

牧歌的な「牧場分譲地」。

タヌキだらけの東京都。

うつろいゆく目白駅の記憶。

御用聞きvs奥様・女中バトル。

住宅街のまん中のミニ商店街。

なかなか売れない第四文化村。

大岡越前は石をぶっつけられたか?

80年たって逆転した「防犯常識」。

バッケの山王斜面に通った八景坂。

『落合文士村・目白文化村コース』改訂版が出た。

「不動谷」を規定していた教育委員会。

聖母坂には関東バスが似合う。

富士山は先達いなくちゃ登れない。

バッケ(崖線)の語源を探ってみよう。

下落合の旧石器はなにを物語るか。

鎌倉と下落合の「隠れの里」相似。

次は終点の下落合でございます。

古い本棚をのぞいていると。

昭和初期の目白通り風景。

地元の道名と「公式」の道路名。

アビラ村(芸術村)にもいるタヌキたち。

御留山の弁天社はどこへ?

ゆたかな湧水を想像してみる。

町名復旧事業へ取り組む自治体。

旧・下落合駅の図面を入手した。

清戸道と目白通りとおまけの左義長。

旧・下落合駅の「折り返しの場」。

1954年(昭和29)の新宿区と落合地域。

大正地図に残る「丁目」表示のミステリー。

アビラ村(芸術村)の成立事情が判明。

目白文化村と前谷戸の埋め立て。

御留山にあった弁天社のゆくえ。

目白文化村の「第五文化村」?(上)

目白文化村の「第五文化村」?(下)

下落合に残る擁壁や塀のいろいろ。

アビラ村(芸術村)開発から見えてくること。

1923年(大正12)の「近衛町」の夏。

1923年(大正12)の「御留山」の夏。

1923年(大正12)の「目白文化村」の夏。

1923年(大正12)の「アビラ村」の夏。

「出前地図」の西部版が見つかった。

たびたび変わる西武電車の敷設ルート。

カンベンしてほしい西武鉄道の設計チーム。

「あ・うん」の呼吸の陸軍省と西武鉄道。

地下鉄「西武線」の陸軍省稟議と免許。

「アビラ村」にバッケ坂や蘭塔坂が復活。

貴重な西武鉄道沿線御案内をいただいた。

東村山から砂利とセメントを運ぶ西武線。

「西武電車沿線案内」のバージョンアップ版。

西武線敷設に「新兵器」投入する鉄道連隊。(上)

西武線敷設に「新兵器」投入する鉄道連隊。(下)

見たことのない1927年の落合町地図。

セミしぐれが聞こえない下落合の夏。

落合地域東部の放射線測定値。(上)

落合地域東部の放射線測定値。(下)

自宅とその周囲の放射線量。(上)

自宅とその周囲の放射線量。(下)

最初期1909年(明治42)の落合地形図。

『戸塚町誌』と『落合町誌』の間に。

江戸期の「バッケ堰」の位置を探る。

陸軍士官学校の測量演習1917年。

できたて聖母病院の周辺に写る家々。

学習院の旧石器時代層から想うこと。

学生時代は落合・長崎地域をよく歩いた。

目白文化村造成前の「不動園」開発。

西坂・徳川邸の風情を再現する。

目白雑司ヶ谷の金山には石堂派がいた。

落合地域にもあった「東京牧場」。

下落合にもあったニホンオオカミの社。

吉武東里邸から寄贈された大谷石を細見。

下落合に観世の能舞台があった。

「線道」をつけてもらえばよかった。

大震災後に改めて提起された防災住宅。

落合地域での堤康次郎の起業を追う。

江戸名所図会から東京名所図会へ。

600万+230万人のみなさん、ありがとう。

使われなくなった昆虫自動販売機。

落合第四小学校の卒業アルバム1941年。

下落合へ東西南北から迫る大道路。

うつろいゆく「武蔵野」の記憶と風景。

日本橋の“すずめ色”いろいろ。

鷹狩りで仕事が増える御留山。

もとの木阿弥になった放射線量。

妙正寺川のもうひとつの「バッケ堰」。

「落合柿」の成り木責めとは?

落合大根の沢庵漬けの作り方。

巡査も見て見ぬふりの闘鶏賭博。

風まじりに棒打ち歌の流れる下落合。

鎌田邸から眺めた1928年の下落合風景。

野田半三『神田上水』は豊橋の上から。

下戸塚の字バッケ下を歩く。

虫だらけの下落合このごろ。

街歩きで、ぜひお願したいこと。

五郎久保稲荷が御霊社であってみれば。

下落合にあった神田明神社。

宝珠と狐塚と稲荷社の関係。

葛ヶ谷・長崎地域の伝承は平安末から。

ネコだらけの下落合にいるネコ。

江戸東京の匂いがせえへんのや。

大掃除で測る自宅の放射線量。

下落合の海が見たい!

落合分水はバッケを流れ落ちた。

西武線にみる鉄道連隊の痕跡。

目白文化村の造成を見ていた目白中学生。

幕末・明治の落合地域はキツネだらけ?

関東大震災と目白中学校の被害。

「大磯学」と「落合学」・丸10年によせて。

落合の妙見山を登攀する。

目白界隈における大震災発生時の記録。

第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(上)

第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(下)

目白中学校の移転と練馬の宅地開発。

下落合の「松影道」と「八重垣道」。

1921年(大正10)真冬の下落合を歩く。

江戸期が匂う1880年(明治13)の下落合地形図。

目白文化村絵はがき3枚から考察する。

近衛町の未契約地「44号」をどうしよう?

媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(上)

媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(下)

落合・目白地域に伝わる「名刀」たち。

台所へ全自動新式ポンプの普及。

落合地域に棲息した動物たち。

ブログの丸11年がすぎて想うこと。

地下鉄「西武線」は1929年3月開通予定。

戸山ヶ原から垣間見える下落合風景。

質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。

上戸塚にも「バッケが原」があった。

安藤下屋敷(感応寺)裏の鼠塚・狐塚・わり塚。

昭和初期に急増した上落合の飲食店。

久高島の巫女と江戸東京の巫女。

下落合の町名変更に住民91.2%が反対。

目白崖線に残るグリーンベルト。

緑深い下落合の風景写真1963年。

十三間通りの工事あれこれ。(上)

十三間通りの工事あれこれ。(下)

1937年(昭和12)の目白通りバス停。

関東大震災直前の生き物たちの記録。

神田川沿いの薬剤製造工場。

感応寺の「裏」側の秘密。(上)

感応寺の「裏」側の秘密。(下)

タヌキの森と放射線と尾崎翠。

神田川沿いへ展開する染め物工房。

第二文化村の「社宅建設敷地」の処分。

戦前からはじまった東邦生命の御留山開発。

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(1)

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2)

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(3)

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(4)

南畝の『高田雲雀』にみる通称「中井村」。

下落合は観世流で高田町は宝生流。

東京35区時代のプライオリティと名所。

『大東京写真案内』にみる新宿区エリア。

東京西部に残る和田氏の伝承。

ドクトルマンボウの下落合昆虫記??

米騒動に起因する東京各地の「市場」。

郊外野菜を運ぶ大八車の中身。

地球を転がすフンコロガシの歌。

『新編武蔵風土記稿』にみる小名「中井」。

大倉山の神木と権兵衛坂の「牟礼田邸」。

落合第四小学校の開校記念写真。

なんだか変だよ「大東京の味覚」の味覚。

空中写真の対空標識と二等三角点。

西武高田馬場駅の建築資材・砂利置き場。

不運な勝巳商店の住宅地開発。

下落合の水車と日本初の鉛筆工場。

陸地測量部1/10,000地形図のゲラ校正。

平和博覧会で売られた1922年の地図。

目白林泉園庭球部vs目白中学校庭球部。

陸地測量部の班長たちが住む下落合。

ちょっと古めな新宿区文化財資料。

昭和初期に走る山手線の姿は?

日本民話の会と「学校の怪談」。

落合地域の荒玉水道は1928年より通水。

記憶の糸が途切れた武蔵野風景。

落合地域と「大日本職業別明細図」。

大正初期の下落合を散歩する。

都心と豊多摩が共存する下落合。

続・東京府「落合府営住宅」の勘違い。

目白中学校の「目白社」と「赤い鳥」。

目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)

のべ1,700万人のご訪問、ありがとう。

落合周辺の種苗店と牧野虎雄の「花苑」。

淀橋浄水場が機能停止した関東大震災。

雑司ヶ谷地域の関東大震災。

1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。

東京郊外にあった「遊園地」の系譜。

下落合18番地で印刷された「時代」。

そろそろ「落合学」にしてもいいかな……。

中井英夫が開いた「薔薇の宴」。

樹木の注文書が残る学習院昭和寮。

織田一磨の「武蔵野風景」。(1)

織田一磨の「武蔵野風景」。(2)

織田一磨の「武蔵野風景」。(3)

「本村」の字名について考える。

千川上水に惹かれる外山卯三郎。

葛ヶ谷村(西落合)の「四ツ塚」。

大正初期の近衛邸の丘をとらえた写真。

1936年(昭和11)の東京名勝めぐり。

戦後すぐに撮られた近衛町の丘。

大正期のガーデニング用製品。

『新宿区史』の下落合写真1955年。

『新宿区史』の上落合写真1955年。

下落合の炭糟道(シンダー・レーン)

落合地域の人が居つかない場所。

下落合駅を通過する西武電車1960年代末。

目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(上)

目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(下)

「よいとまけ」が響く大正期の下落合。

棒打ち歌が流れる西落合の初夏。

落合地域にみる昭和初期の「断層」。

織田一磨の「東京郊外風景」。(上)

織田一磨の「東京郊外風景」。(下)

ブログ17年目の今日に想うこと。

国分寺跡に布目瓦を探す料治熊太。

最高傑作とまでいわれたフランス式彩色地図。

雑司ヶ谷金山にいた石堂派のゆくへは?

1963年(昭和38)ごろの「地番変更案」地図。

空き地があれば畑にする1944年。

ようやく入手した籾山牧場絵はがき。

御留山の相馬邸に展示されていた刀剣は?

美術刀剣の保存を進めた谷千城と川村景明。

泳ぐと泥んこになる野方と落合の遊楽園プール。

落合・目白地域に集った名刀たち。

村山知義が好物のウナギとタヌキ。

高田馬場仮駅は二度設置されている。

のべ2,000万人に感謝と江戸東京のお遊び。

酒米を食用米の水田にしてブドウ園を増やせ。

武蔵野の森にみる100年前と現在の動植物。

落合西部と江古田・片山の和田伝説いろいろ。

下落合と椎名町の目白通り商店街1932年。

隣り村同士でまったく異なる「おびしゃ」祭り。

鼠山で馬上から鉄砲を撃つ徳川吉宗。

東京郊外の文化住宅街のトイレ事情。

関東大震災の警察資料に記録された祖父。

暗闇に吸いこまれそうな崖線の急坂。

下落合に眠るか旧石器時代の土器。

新型コロナ禍の影響が少ない専門職人の世界。

金山の刀鍛冶は石堂守久一派の工房か。

やっと出てきた下落合の旧石器を観察する。

わたしの記憶にない下落合の神田川橋。

「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(上)

「公楽キネマ」に出稿する上落合の商店。(下)

ようやく見つけた一枚岩(ひとまたぎ)の写真。

1954年(昭和29)の新宿区勢要覧。

1962年(昭和37)の新宿区勢要覧。

落合には37基の古墳が記録されている。(上)

落合には37基の古墳が記録されている。(下)

「前方後円墳風な地形」の月見岡八幡社。

旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(上)

旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(下)

雑司ヶ谷金山の石堂派は「土」に惹かれたか。

金山稲荷の石堂孫左衛門と「石堂孫右衛門」。

「大温室」があるお屋敷の風景。

石堂守久一派は赤坂から雑司ヶ谷に移ったか?

昭和初期に撮影された目白通りの2景。

下落合の板碑から鎌倉時代を想像する。

ついにはデパートのようになった公設市場。

「首塚」や「馬塚」の下には古墳がある。

甘い落合柿を食べていて想うこと。

残された中華民国公使館官舎の門柱。

家を外国に貸す人、家を外国に接収される人。

近衛師団の演習適地だった明治の落合地域。

華族たちが集まる昭和初期の落合地域。

大黒葡萄酒の隣りにあった石倉商店工場。

錯覚を生む地域や町の「表現」について。

まったく面白くない住谷磐根の武蔵野散歩。

目白文化村絵はがきと国立絵はがきとの相違。

大正期からの丁目表記と字名境界の規定。

目白崖線沿いにつづくタタラ遺跡を考える。

金久保沢は天然神奈(鉄穴)流し場だったか。

山手線と目白停車場は「迷惑至極ニ御座候」。

大鍛冶(タタラ)集団による操業は千人規模?

海辺で関東大震災に遭遇した画家たち。

大泉黒石もはまった神奈川の化石採集。

山登りは晩秋がいちばんという話。

「山手線」の測定標杭を引っこ抜け。

東京からきたって顔は絶対しないで1931年。

念仏講のお祈り先はご先祖様と太陽神。

東京護謨の納品帰りは神田市場の青果。

落合地域における関東大震災の証言ふたつ。

目白停車場が存在しない山手線平面図。

「目白教会」を伝道教会と福音教会が綱引き。

「裏」=中ノ道ではなく「表」の道を進む葬列。

連携「下落合と早大を訪れた旧石器人」。

『落合町誌』の基盤となった『落合町現状調査』。

「転げあるき」で描く蕗谷虹児と関東大震災。

誤った位置にある目黒の化坂(ばけさか)

社内ガバナンスで激論の三宅勘一と堤康次郎。

「近衛町」と「長崎町」を耕す川村女学院。

三岸好太郎『茶畑』は大正末の下落合風景。

「アビラ村」の名は上高田で受け継がれた?

西武線の「開通」が2ヶ月も早い陸軍記録。

長崎ダットが原の快進社DAT自動車工場。

私設の乗合自動車が盛んな大正末の東京郊外。

「近衛新町」の名称はいつまで使われたか。

下落合の丘上を発掘調査した大里雄吉。

ダット乗合自動車の停留所1935年。

小石川駕籠町から下落合への目白ヶ丘教会。

のべ2,500万人のご訪問ありがとうございます。

「清戸道」の呼称は江戸時代の初期から。

大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。

薩長政府「塚丘は総て廃毀せよ」通達はひどい。

東京近郊の農村としての落合地域。(上)

東京近郊の農村としての落合地域。(下)

「江戸城」と「千代田城」の相違について。
武蔵野で思わず出会えた蕨手刀。 new
鎌倉年紀の板碑.jpg
徳治二年(1307年)の年紀が入る鎌倉期の板碑(薬王院蔵)
御留山01.JPG
谷戸地形と湧水池(御留山)
藤稲荷バッケ2.JPG
目白崖線のバッケ(崖地)地形